大阪地方裁判所 平成10年(ワ)908号 判決 1999年4月12日
原告
山下聰
右訴訟代理人弁護士
國弘正樹
被告
株式会社河合楽器製作所
右代表者代表取締役
河合滋
右訴訟代理人弁護士
巽昌章
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一原告の請求
一 原告が被告の従業員たる地位を有することを確認する。
二 被告は、原告に対し、四一二万五二〇〇円及びこれに対する平成九年七月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
三 被告における原告の給与(本・付加給)が、平成九年七月一日以降四〇万一〇四〇円を下ることのないことを確認する。
第二事案の概要
本件は、被告に雇用されていた原告が、テスコ株式会社(以下「テスコ」という)及びメルヘン楽器株式会社(以下「メルヘン楽器」という)への転籍を命ぜられ、その結果五五歳以降の賃金及び退職金の額において不利益を受けることとなったところ、右テスコへの転籍が無効であるとして、被告の従業員たる地位を有することの確認と、被告の従業員であった場合に受けるべき退職金とメルヘン楽器から受領した退職金との差額の支払並びに給与が被告の従業員であった場合と同様である旨の確認を求めた事案である。
一 争いのない事実
1 原告は、昭和四一年四月一日被告に雇用され、昭和四五年一〇月二一日営業電子部大阪地区電子課主任となった。
2 原告は、昭和四八年五月二一日、テスコに転籍した(以下「本件転籍」という)。テスコにおける原告の経歴は以下のとおりである。
(一) 同年八月一日
テスコ大阪営業所係長
(二) 昭和四九年二月一二日
テスコ営業課大阪営業所長
(三) 昭和五六年二月一日
テスコ営業部営業課大阪営業所長
(四) 昭和六〇年一月二一日
テスコより被告に出向し、被告一般楽器事業部営業課大阪地区担当
(五) 昭和六一年二月一日
被告OA事業部営業部SE課勤務(テスコよりの出向)
(六) 昭和六二年三月一日
被告OA事業部営業部営業一課カワイシステムセンター大阪勤務(テスコよりの出向)
(七) 平成二年二月一日
テスコより株式会社カワイビジネスソフトウエアに出向し、同社開発部開発四課大阪開発係長
(八) 平成三年九月一日
株式会社カワイビジネスソフトウエア開発部開発四課大阪駐在(テスコよりの出向)
3 テスコは、平成七年四月二一日解散し、原告は、これに伴ってメルヘン楽器に転籍し、同社より株式会社カワイテクノセンター大阪TC・CE係に出向扱いとなった。
4 原告は、平成九年七月九日満五五歳となり、メルヘン楽器の就業規則により退職金六九七万〇五〇〇円の支払を受けた(メルヘン楽器における従業員たる地位は引き続き有している)。また、同年六月分以降の給与は、従前の給与の八五パーセントに減額されている。
二 争点及び争点に関する当事者の主張
1 争点
本件転籍が有効であるか否か。
2 原告の主張
(一) 本件転籍は以下の理由で無効である。
(1) 錯誤無効
本件転籍は、形式的には、原告の同意を得たうえで行われているが、この同意は、転籍によって、退職金を含む労働条件について何ら不利益な取扱いをしないことを条件にされたものである。しかしながら、現実には、退職金の支給において原告は不利益に取り扱われたのであるから、右同意は錯誤により無効である。
したがって、原告は、被告との間で雇用契約関係を有する。
(2) 公序良俗違反、権利濫用
本件転籍は、その前後を通じて、原告の勤務場所、勤務内容、業務の指揮命令関係において変更はなく、形式的に原告の所属を子会社であるテスコに変更しただけのもので、まったく実体がない。被告においては、メルヘン楽器への転籍にも見られるように、従業員を形式上関連子会社に転籍させ、不利益に取り扱うことがなされていたのであって、このような転籍は、何ら合理的理由もなく勤務条件において不利益な取扱いするもので、公序良俗違反又は人事権の濫用であって、無効である。
(二) 仮に、原告が転籍扱いとなっておらず被告の従業員であったとすれば、満五五歳時には一一〇九万五七〇〇円の退職金を受領できたはずであり、また、平成九年六月以降の給与も減額されることはなかった。
(三) よって、原告は、被告に対し、被告の従業員たる地位を有することの確認及び退職金の差額四一二万五二〇〇円の支払を求めるとともに、平成九年七月一日以降の給与が従前と同額であることの確認を求める。
3 被告の主張
(一) 本件転籍は、原告、被告間の合意に基づくものである。そして、その合意の際、被告は、転籍当時の被告及びテスコの勤務条件を比較説明したことはあるが、将来にわたる同一条件を保証したことはない。原告が本件転籍に同意していたことは、原告が昭和四八年以降本件訴訟を提起するまでの間、何ら異議を述べていないこと、メルヘン楽器への転籍に当たっても、テスコの従業員であることを前提として右転籍を承諾したことからも明らかである。
(二) 原告は、テスコへ転籍後、昭和六〇年一月二一日までの間は、テスコの大阪営業所において、テスコ製品の販売などの業務に就いていた。また、被告からテスコへ転籍した従業員の多くは、埼玉県のテスコ本社で勤務しており、原告はたまたま大阪営業所で勤務していたに過ぎない。したがって、昭和四八年のテスコへの転籍が実体を伴っていないものであったとはいえない。
第三争点に対する当裁判所の判断
一 当事者間に争いのない事実に証拠(略)及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
1 原告は、昭和四一年に被告に入社し、河合ブランド及びテスコブランドの電子楽器の販売に携わっていたが、昭和四五年一〇月二一日営業電子部大阪地区電子課主任となって以降は、主として電子オルガンの販売及びメンテナンスに従事していた。
2 テスコは、電子楽器の専門メーカーを被告が昭和四二年一月ころ買収して子会社とした、従業員約二六〇名の会社である。テスコは、昭和四八年二月ころ、テスコブランドのエレキギター、アンプ類の製造及び被告ブランドの電子オルガンの製造を行っていたが、当時電子オルガンの需要が急激に伸びたためテスコの生産能力が不足する一方で、その性能向上に伴って被告における補修業務が減少し、被告の電子楽器担当人員には余剰が生じていた。
そこで、被告は、テスコに被告の電子楽器担当従業員を転籍させ、被告グループの電子楽器部門を集中、充実させることを計画し、被告の営業電子部電子課などを組織変更するとともに、同年五月から九月にかけて被告の営業電子課に所属する従業員ら三三名をテスコに転籍させることとし、原告もその対象となった。
3 右転籍に際しては、全国の各支社において、転籍予定者に対する説明会が開催され、原告が当時所属していた関西支社(当時は大阪支社)においても、被告電子楽器事業部総括課長兼テスコ総務課長佐々木宣雄(以下「佐々木」という)及び被告営業電子部の羽生次長が説明を行った。説明は、原告を含めた転籍予定者を一室に集めた形で行われ、その際、佐々木は、給与が転籍によって下がることはなく、また、テスコは被告グループの中の優良企業であるから何も心配する必要はないとの趣旨の説明した。そして、原告は、右転籍に同意し、昭和四八年五月二一日テスコに転籍した。
4 テスコに転籍した被告の従業員の大部分は、埼玉県菖蒲町のテスコ本社工場勤務となったが、原告は、被告の関西支社内にあったテスコの大阪営業所に配属され、昭和四九年二月一二日にはテスコ大阪営業所長となって、昭和六〇年一月まで、テスコブランドの電子楽器の卸売業務を担当した。もっとも、原告の直属の上司は埼玉県のテスコ本社にいる営業課長であり、また、原告自身も月に一度営業会議に出席するためにテスコ本社に出張していた。
昭和四八年当時、テスコの業績は良く、従業員の給与水準は被告よりも高かったが、被告からテスコに転籍した従業員については、テスコの賃金体系は適用されず、被告の給与水準が維持された。もっとも、その後はテスコの賃金体系に合致させるべく、転籍者の給与を引き上げる措置が取られた。
5 昭和六〇年一月、被告グループ内における電子楽器の営業系統を一本化するためにテスコの大阪営業所が廃止されたため、原告は、同月二一日テスコから被告へ出向扱いとなり、従前同様被告の関西支社内において、テスコブランドの電子楽器の販売に携わった。
原告は、その後株式会社カワイビジネスソフトウエアに出向扱いとなったが、テスコは、平成七年四月二一日解散し、原告は、これに伴ってメルヘン楽器に転籍した。
二 以上の事実に基づき、争点について検討する。
1 錯誤無効について
原告は、本件転籍に対する同意は、退職金を含む労働条件について何ら不利益が生じないことを前提にしたものであるところ、現実には退職金の額及び五五歳以降の給与の取扱いにおいて不利益が生じているから、右同意は錯誤によるもので無効であると主張する。
しかしながら、そもそも原告が主張する不利益が生じたのは、テスコの解散により原告がメルヘン楽器に転籍した後のことであって、原告本人によれば、テスコ在籍時の労働条件において不利益は存在しなかったことが認められる。したがって、テスコの労働条件に関する限り、原告の期待と現実の労働条件との間に何ら齟齬は生じていないから、本件転籍に対する同意に錯誤はなく、原告の主張は理由がない。
もっとも、原告は、本件転籍に当たっては、転籍者の将来にわたる労働条件すべてについて被告と同一の取扱いが保証されることが前提となっていたとも主張するようである。しかしながら、転籍とは、被告との雇用契約を解消し、あらたに別企業と雇用関係を結ぶことであるから、転籍が行われるにもかかわらず被告の労働条件が保証されるというためには、その旨の明確な特約の存在が必要であると解されるところ、前記認定のとおり、佐々木は、本件転籍に際し、給与その他の待遇が下がることはないこと、テスコが被告グループの優良企業であり何ら心配がないこと等の説明をしたにとどまるのであって、右発言は、テスコが解散するような場合も含め、転籍者の将来にわたる労働条件すべてについて被告と同一に取り扱うことを保証したものとは到底評価できないものである(なお、この点に関し、被告の出向・転籍規定(書証略)には、転籍は本人の利益に反しないと認められる場合に行うとの規定があるが、これも、転籍者の将来にわたる労働条件すべてについて被告と同一に取り扱うことを保証したものとまでは解されない)。そして、仮に、原告が右佐々木の説明を聞き、将来にわたり被告と同一の労働条件が保証されるものと期待したとしても、かかる期待は何ら外部に表示されていないから(本件転籍に当たり、将来の退職金等については全く言及されず、原告も特に問題としなかったことは、原告本人も認めるところである)、かかる期待に反する結果が生じたとしても、原告の意思表示に要素の錯誤があるということはできない。
2 公序良俗違反又は権利濫用について
原告は、本件転籍が全く実体のないもので何ら合理性がなく、公序良俗違反又は人事権の濫用であって無効であると主張する。
しかしながら、前記認定の事実関係に照らせば、テスコは、昭和四八年当時、被告の子会社ではあるが、現実に電子楽器の製造販売を行っていた実体のある会社であったこと、本件転籍は、電子オルガンの売れ行きが好調であったことから、テスコの生産体制を強化するために行われたもので、転籍者はテスコにおいて永続的に業務に従事することが前提となっており、現実にも転籍者の大部分は埼玉県のテスコ工場に勤務し、原告が大阪において引き続き勤務したのは、営業担当として大阪地区を引き続き担当することになったために過ぎないこと、原告の営業活動は、本件転籍後はテスコの名において行われ、業務上の指揮命令系統もテスコ本社の指揮命令系統に属していたことが認められるのであって、本件転籍が何ら実体を伴わないものであるとはいえない。確かに、証拠(略)によれば、テスコやメルヘン楽器の従業員についても、被告の従業員と共通した従業員番号が付され、転籍後の経歴も被告の社内歴として取り扱われるなど、被告においては、グループ会社間の転籍は、被告による一種の人事異動のように取り扱われていたことが窺われるけれども(書証略によれば、給与の支払事務も被告が一括して行っていたことが認められる)、グループ企業間の従業員の異動を親会社がその経営戦略に従って主導し、統一的に管理することは通常みられる現象であって、これが直ちに不当であるとはいえず、これにより、本件転籍が公序良俗違反や権利の濫用となるものではない。
もっとも、テスコの大阪営業所が廃止された昭和六〇年以降は、原告は、被告に出向扱いとなり、被告の業務を遂行していたのであるから、テスコの業務に従事するという意味での実体は失われたということができるけれども、かかる状態が生じたからといって被告が原告を復籍させる義務を負っていたということはできないし(被告が、原告を復籍させることを約した事実がないことは、原告本人も自認するところである)、また、かかる事情から直ちに本件転籍が公序良俗違反や権利の濫用となるものでもない。そして、その他に本件転籍が公序良俗違反又は権利の濫用を構成すると認めるに足りる証拠はない。
したがって、本件転籍が公序良俗に反し、又は権利の濫用であって無効であるとの原告の主張は理由がない。
3 結論
以上の次第で、原告の請求はいずれも理由がないから棄却することとする。
(裁判長裁判官 松本哲泓 裁判官 谷口安史 裁判官 和田健)